日記

5月24日ヲ忘ルナ!尼港(ニコライエフスク)事件

こんな超少数派である白人女性大好きブログで書くことではないな…と感じたのですが、尼港事件があった事だけでも書きたいと思います。このブログでは度々ロシア人女性との恋愛なんて書いていますし、私の妻もロシア系。

あまり知られていないロシアとの重たい歴史事実ですが、書いておきます。

尼港事件なんて学校の教科書では習いませんでした。恥ずかしながら私はつい最近知りました。済南事件、南京事件(所謂南京大虐殺ではない)、通州事件など、日本人が中国大陸において残虐非道、言語に絶するような手法で虐殺されことは知っておりましたが、尼港事件は本当につい最近です。

完成版 大東亜解放戦争〈上巻〉」を読んでいた時に尼港事件について知りました。
読んでいる最中は涙が流れてきました。こんな残虐な行為、悲壮な決意を持って兵士以外の老若男女も武器を取って共産パルチザンと戦った事実があったとは。

尼港事件については多くの方のブログで詳細が描かれております。
小名木善行氏のブログに詳しく書かれておりましたのでリンクを貼っておきます。

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2252.html

 

尼港事件とは?

大正9(1920)年1月29日に起こった共産パルチザンによる殺戮事件。
700名以上の日本人男女がロシア人を中心とする約4300人の共産パルチザンによって殺害された事件です。また、ニコライエフスクの白系ロシア人、ユダヤ人数千人が殺害されました。

妻にこの話をしたところ、そんなことは全然知らないと言っていました。妻は8歳までソ連邦の人間でしたから知る由もありません。ただ、同じロシア民族が6000人も虐殺された事実を知ることは決して悪いことではありません。
ロシアのニコライエフスク(尼港と呼ばれていた)には日本人約700名を含む17000人あまりが居住していました。白系ロシア人約15000人。中国人約1000人、朝鮮人約500人。「白系ロシア人」というのは共産主義、赤化したロシア人ではない。赤化したロシアから逃げてきた人達のことを言います。ご存知の方が大半だと思いますが、私は昔白系ロシア人のことを白人系のロシア人だと大変な間違いをしておりました。

さて、

  1. 大正6年1917年にロシア革命。
  2. 帝政が崩壊しましたが、レーニンの政府は国家と認められていなかった。
  3. 無政府状態のロシア国内の治安維持及び自国民保護のため、日米英が国際共同で派兵。
  4. 多数の囚人が送られていたシベリアは脱獄囚共が跋扈しリアル北斗の拳状態。
  5. 共産主義者共が彼らに武器弾薬を供与。
  6. シベリアにある旧ロシア帝国の総督らは共匪どもらと闘い続けていましたが、最後は壊滅させられてしまいました。
  7. これにより英米は撤兵。日本軍のみが治安維持に当たることになりました。

手薄になったところをニコライエフスクが襲われたのです。
ニコライエフスクには日本兵260人。共産パルチザンたちは「自分たちには敵意はない、食料の補給に強力をしてほしいだけだ」と言って市内に乱入。たちまちロシア白衛軍の将兵を虐殺。有産知識階級と思われる一般市民を大量虐殺。

一日で2500人のロシア人とユダヤ人が殺されました。

翌日、日本側は抗議をしましたが、抗議なんて聞くわけがありません。共匪どもは日本側に対して武装解除を要求。武装解除などしたら間違いなく虐殺されてしまいます。

 

「座して死を待つのなら勇敢に戦って死のう」

日本人部隊は義勇兵を募り100名ちょっとで共匪の集団に奇襲をかけましたが全滅。日本領事館に逃げた日本人250人は老若男女、死して辱めを受けるよりも武器を取って戦おうと女性までもが銃を持って闘いました。
尼港にあって事件を目撃した日本海軍士官が非常な苦心の末、ウラジオストックまで脱出し、事件の手記をもたらしてくれました。共匪の蛮行を下記のように記しています。

彼等過激派の行動は偶然の突発にあらずして、徹底的画策の下に実行されたものとす。すなわち左のごとし。
第一段行動として、露国資産階級の根本的壊滅に着手し、所在資本階級者の家屋を包囲し、資産の全部を公然と略奪したる後、老幼男女問わず家人ことごとくを家屋内に押しこめ、外部より各出口を厳重に閉塞し、これに放火し、容赦なく火中に鏖殺し尽くしたり。
第二段の行動として、親日的知識階級に属する官公吏と私人とを問わず、容赦なく虐殺、奪掠、強姦など不法の極を尽くし、第三段行動として獰猛なる彼らの毒牙は着々我が同胞日本人に及びたるなり。
ここにこれが実例を指摘せんとするに当り、惨虐なる暴戻ほとんど言うに忍びざるものあり、敢えてこれを書く所以のもの、すなわち犠牲者の尊き亡霊が全世界上、人道正義のため公言するものなり。深くこれを諒せよ。
公然万衆の面前において暴徒悪漢群がり、同胞婦人を極端に辱かしめて獣欲を満し、なほ飽く処を知らず指を切り、腕を放ち、足を絶ち、かくて五体をバラバラに斬りきざむなど言外の屈辱を与え、残酷なる弄り殺しをなせり。
またはなはだしきに至っては馬匹二頭を並べ、同胞男女の嫌ひなく両足を彼此の馬鞍に堅く結び付け、馬に一鞭を与えるや、両馬の逸奔すると同時に悲しむべし、同胞は見る見る五体八つ裂きとなり、至悲至惨の最後を遂ぐるを見て、悪魔は手を挙げ声を放ちて冷笑悪罵を浴びせ、群鬼歓呼してこれに和するに至っては、野獣にもあるまじき凶悪の蛮行にして言語に絶す。世界人類の公敵として天下誰か、これを許すものぞ、いはんや建国以来の民族血族においてをや。
帝国居留民一同悲憤の涙を絞り、深く決する所あり。死なばもろとも、散らば桜と、一同老幼相携へ相扶け、やうやう身を以て領事館に避難し、その後市街における同胞日本人に属する全財産の掠奪はもちろん、放火、破壊その他暴状至らざるなし。しかりといへども軍人云わず領事館民と云わず飽くまで彼等と衝突を避くる事に注意し、切歯扼腕、堪忍自重す。しかるに彼等過激派はますます増長し、ついに領事館に向かって砲撃を加え、我が領事館は砲火のため火災を起こすに至り、もはや堪忍袋の緒も切れ万事休す。
これまでなりと自覚するや、居留民男女を問わず一斉に蹶起して、自衛上敵対行動をとるに決し、男子と云う男子は総員武器を把って護衛軍隊と協心戮力、頑強に防戦し、また婦人も危険を厭わず、敵の毒手に斃れんよりは潔く軍人の死出の途づれ申さんと、一同双手をあげて決死賛同し、にはかに活動を開始す。
しかし、全員いかに努力奮戦するも衆寡敵すべくもあらず、刻一刻味方の減少するのみ、ついには繊弱なる同胞婦人に至るまで、戦死せる犠牲者の小銃、短銃を手にし、弾はかく込めるものぞ、銃はいかに射つものなるぞと教わりつつも戦線に加わり、無念骨髄に徹する敵に対し勇敢なる最後の抵抗を試み、ことごとく壮烈なる戦死を遂ぐ。かくてもはや人尽き、弾丸尽き、力尽き、人力のいかにすべきやうもなくなお生存の健気なる婦人または身働きの出来る戦傷者は、なんすれぞ敵の侮辱を受けるものかと、共に共に猛火の裡に身を躍らし、壮烈なる最期を遂げたり

大正9年6月13日の時事新報には、

南北一里半東西二里半の尼港全市はペチカの煙突のみ焼け残り、一望荒廃、煉瓦造りの家屋は爆破され崩れ、木造家屋は跡方もなく焼失せり。電柱は往来に焼け落ちて、電線は鉄条網のごとく彼等の足に絡み、焼け跡には婦人の服、靴、鍋、子供の寝台など散乱せり。監獄は市の北部にあり。余等は直ちに焼け残れる一棟に入る。まず異臭鼻を突くに、一同思わず顔を背けざるを得ざりき。中は八室に別れ、腐敗せる握り飯の散乱せる壁に生々しき血液の飛び散れる、女の赤き扱帯の釘に懸かれるなど、見るからに凄惨を極む。最も落書の多かりしは二号室にて、「大正九年五月二十四日午後十二時を忘れるな」と記し、傍らに十二時を指せる時計の図を描きあり。また「曙や物思う身にほととぎす」「読む人のありてうれしき花の朝」等数句の俳句を記し、また「昨日は人と思えども、今日は我が身にかかる」「武士道」等の文字、白ペンキ塗りの壁に鉛筆を以て書かれあり。特に悲惨なるは、赤鉛筆にて五月十九日より六月二十三日までの暦日を数字にて表を作り、最初より二十四までは線を引きて消されあるもの、二十五日以下は消されず。これ二十四日夜、百四十名は監獄より曳き出されて、黒滝河畔に連れ行かれ、ことごとく刺し殺して河に投じられたるなり。
記者一行は同胞の呻吟せしこの獄内に暫く低徊の後、出でて黒竜江河畔に赴く。造船工場の前におよそ二百坪の空地は一面に血潮に染められ、色既に黒し。これ皆我が同胞の血!
縛めの縄にべっとり付着せる、また鮮血を拭いたる縮みのシャツ等、陸に引き揚げられ、舷におびただしき血潮の飛び散れるなど、眼も当てられぬ惨状なり。同胞が恨みを呑んで毒刃に殪れしこの汀!
余等は一歩一歩同胞の血潮を踏まざれば進むを得ざるほどなり。
余等はそれにより津野司令官を訪う。津野少将は涙を浮かべ「我が同胞は一名も残らずことごとく死にました。同情に堪えません。ただその中一人として卑劣な行いもなく、最後まで屑かったということだけは嬉しいです」と。

「完成版大東亜解放戦争上巻」P244~250より

鬼畜外道の所業です。
読んでいるときも書き写している時も、何度涙を拭ったことか。

この写真は捕虜となった日本人が壁に書きつけた文字です。
大正9年5月24日です。ご先祖様、97年前の事件ですが絶対に忘れませんよ。今はインターネットと言うものがあり、忘れるどころか多くの日本人に拡散できます。

止むに止まれず、銃の使い方も闘い方もわからない女性たちが、鬼畜共匪と闘ったり、目の前で同胞たちもしくはロシア人たちが陵辱、虐殺されていた時の気分たるや…想像できません。

ウィキペディアによると慰霊碑があるようです。

  • 小樽市の手宮公園に尼港殉難者納骨堂と慰霊碑
  • 天草市五和町手野
  • 水戸市堀原
  • 札幌護国神社に殉難碑

距離的にパッと行けるところではなかったので、せめてもと思ってこの日は国民の祝日では無いけれども、哀悼の意として我が家の庭に国旗を掲揚させていただきました。

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